更新日 2022.10.21
――― 追 憶 の 辞 ―――
池上 茂
5月31日山崎正光君急逝の報に接し、6月1日佐川町の居宅に弔問する。その日中学校代よりの友人森岡二三弁護士及び、水沢在住当時の区裁判所の判事であって、格別の懇情をいただいて居られた長山弁護士も共に来訪せられ御家族と共に遺がいを市立の火葬場に送り、越えて3日佐川教会に於いて、高知教会吉田牧師の司式の許に告別式が施行せられたので、その末席に列し追悼の詞を述べた。教会信徒諸兄姉に守られて、彼の愛娘の眠る納骨堂に彼の遺骨を納めることが出来た。
今回宇宙誌より彼に対する想い出を書く様にと御申越であるが、何分文筆の才に乏しく稍々躊躇したが、折角の御申出を無にすることも失礼と存じ、告別式の当日読んだ追悼文を御送りすることに致します。
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本日旧友山崎正光君の告別式を挙行せらるるに当たり、その末席に列するを得た友人の一人として、永年の交友の間に彼が青年時代に信仰生活に入ったことや、特に天文学に志した動機等について述べ追憶の言葉としたい。
彼は1907年即明治38年3月県立中学海南学校を卒業すると同時に、学術研究の目的で渡米し、加州サクラメント市の(日本人)メソジスト教会に落着き、スクールボーイをしながら英語の勉強を始めた。当時その教会には各県の青年が集り、敬けんな吉田牧師による基督教の指導を受けていた。小生も亦共に指導を受けた一員であるが、山崎君の非常に温和で人と争いしない性格は、皆に愛され尊敬されていた。而して彼は日ならずして基督教の感化を受け、受洗して信者となった。
彼は日曜毎の礼拝に列し聖書の研究に専念したが、特に内村鑑三先生の「聖書の研究」を愛読して強く心を打たれた。それからの彼の信仰こそは、彼の一生に光明と指導とを与え続けたのである。かくして彼は無教考主義者となって、内村先生の感化を受けるようになった。
而して当時の移民地の弊害として、支那賭博場に出入りする同胞が多いのをなげき、小生と二人で毎日曜日には街頭に出てキリスト教を伝え、僅かながらも同好の士を得たのであった。
ある夜彼と私は公園の草の上に寝て、静かに天を仰ぎ星をながめていた。その時彼は聖書の研究と内村先生の感化によって、宇宙の偉大なること、神の愛等について話をした末、「もうおら(私)金儲けの考えはやめた。空の星を数える」と決心を語った。そしてその後日ならずして、小さな望遠鏡を買って毎晩星を見ることになったのである。
当時の働き先のミセスルート一家も亦熱心な信者であったので、彼は大変良い環境に恵まれていたと言えよう。かくしてこのアマチュア天文学者は、彼の持つ望遠鏡のサイズが大きくなると共に、一生を天文学に投ずる決心を益々固くしたのである。
その後ミセスルートが御主人の勤務の都合上羅府に転出せられたので、その間或る学者の紹介で、サンノゼ市の奥にあるマウントハミルトンの、リック天文台の客人として滞在した。その前後に彼はハレーコメットの観測について詳細なる報告をロンドンの天文学界の雑誌に投稿し、その業績によってアマチュア天文学者として、その名を世界に知られるようになった。
それから羅府のミセスルートの家に2年程居た後に、一時桑港市外のレドウードで旧友北川君と花を作る事になったが、到底永続きなせず、花作りでも商売人でもなかった。遂に正式に学校で勉強することを決意し、小学も高校の課程もやっていない者が、加州大学の久野教授の推薦で、語学の試験を受けて1917年大学に進学を許された。2年の仕事の終りに、私の家庭の事情の為に中途で休学して、不在中の私の店の手伝いをしていて、1919年5月頃日本に帰り恩師内村先生にも面会することが出来た。国に帰って現在の奥様と結婚したが、単身再渡航して学校に帰り、非常な困難を彼の倦まざる努力の結果、今迄日本人として例のない数学の非常に難しい天文学の専攻で、バチェラーの称号を得て卒業した。1921年の夏日本に帰って母校の海南中学の先生をしている間に、京都天文台の新城博士や山本先生の御推薦で、京都の大学に一両年居って、その間木村先生の御めがねにかない。水沢の緯度観測所の技師となったのであるが、学閥のやかましい処へ外国の大学出が行ったので、相当の気苦労があったものと思われる。
その間二男、二女を恵まれたが、彼の時折の上京の際に、彼は厳寒零下20度の真夜彼が緯度観測機の側で、二、三時間の観測をすることは如何に困難であるかを、話して聞かしたものである。17年間の水沢勤務が彼の最も得意の時であり、彼が発見したすい星に彼の名を冠するを得たと聞くが。これ丈の結果を挙げ得たるは、彼の強い意志と熱心な信仰とたゆまざる研究心の結果である。
その後彼は五藤光学の技師として招かれ、東京に出て私の駒沢の家を彼に譲ったので、これに移転して物置を改造して、その上に望遠鏡を据えて毎夜星をながめて楽しんだものである。
在京生活も数年ならずして家庭の事情で郷里に帰って来た。なおその前に彼が熱愛した、長女雅子を失ったことは大きな痛手であった。
故郷に帰った後の彼は、戦後物資不足の為に生活の上に非常に苦しみつつも、なおも神を讃え、家庭にあっては常に愛情のある父親であった。余り丈夫でもない身体で荒畑の開墾をやり、イモや麦を採って食糧にしたのは、彼の強い意志によるものであるが、これが為に神経痛を起し全く歩行が出来ぬ様になり、運動も不足勝で実に気の毒であったが、数年前私の世話で二男明君の嫁をもらい、可愛い正雄君が生れ非常に喜んでいた。
彼は最早佐川教会に出かけて聖書の講義をすることも出来ず、聖書を読み祈を為し静かに余生を送っていた。
彼の如き友情の厚い信念の人が今やなし。彼の霊は神と共に永遠なる宇宙の真理を極むる為に、天のかなたに静かにすごすことが出来ると思う。又愛する奥様や御家族が温情のこもる容姿に接するを得ずとも、心の裡に常に慈父の愛情を想起することが出来る。
この佐川郷は勿論のこと、県下に或いは日本に再びこんな篤学の士、信仰の戦士を求めることが出来ないかも知れない。只約60年兄弟の如く仲良くした彼を失うことは、老生の真に悲しみにたえざる所、これ以上老生は彼を追悼する言葉もない。
神は永遠に我らを祝し給い、残された御家族の上に祝福をたえまない、世に希望の光を与え給え。
アーメン。
1959年6月3日
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