連載 星夜の逸品 -児玉光義-

ドームなび GOTO投映支援サイト

異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.7 4/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.10.28

    故山崎正光氏の年譜


本籍地                   高知県高岡郡佐川町本三野乙2226にて
明治19年5月15日父、山崎寅吉、母、山崎いぬの次男として出生。

明治30年03月         佐川尋常小学校卒業

明治33年03月         佐川高等小学校卒業

明治38年03月23日  県立海南中学校卒業

(在米時代)

明治38年11月20日  北米合衆国に希望をもって渡航す。

     〃      11月30日  加州サクラメント市のメソジスト教会に落着き、スクールボーイをしながら、英語の勉強を始む。吉田牧師の熱心な指導を受け、日ならずして受洗しキリスト教の信者となった。当時2吋屈折望遠鏡を求めて星をながめ始める。

明治44年11月01日  リック天文台エイケン博士の家庭に入り、数学、天文学を学び、同時に6吋望遠鏡を使用して天体の観測をする。その后4吋望遠鏡を求めて天体観測をし、かたわら大学入学の準備をする。

大正06年01月15日  カリフォルニア大学天文学科に入学。

大正08年01月16日  友人池上氏の仕事を手伝うために同校を休学する。

     〃      05月15日  14年振りに帰国す。

     〃      07月07日  帰国中に貞伊と結婚す。

     〃      08年25日  再渡米

     〃      09月01日  カリフォルニア大学天文学科に復校。

大正10年05月         同大学天文学科を卒業。学術優秀のため表彰される。バチェラー・オブ・アーツの学位を受ける。

大正11年03月24日  17年間にわたるアメリカ生活に終止符を打って帰国。

大正11年05月10日  母校である高知県立海南中学校に英語教師として勤務。

大正12年01月21日  長男、健臣出生(盛岡岩手大学機械科を卒業し、現在佐川町の土佐石灰株式会社に勤務。1男2女の父)

     〃      08月25日  京都帝国大学物理学部講師を嘱託される。当時の宇宙物理学教室は、新城教授、山本一清、上田穣両助教授及び山崎講師と言うスタッフで、他に中村要氏がおられた。

(水沢時代)

大正12年12月07日  緯度観測所技師に任ぜられ、高等官7等に叙せられる。

大正12年12月08日  観測勤務を命ぜられる。

     〃      12月28日  叙従7位

大正13年06月10日  図書室主任を命ぜられる。

     〃      11月30日  長女、雅子出生。(県立水沢高等女学校を卒業し、上京して東京女子専門学校在学中昭和16年5月死去)

大正15年01月25日  陞叙高等官6等。

大正15年02月25日  陞叙7位

昭和02年03月10日  次女、恵子出生。(東京駒沢高等女学校を卒業。現在片岡正巳に嫁し佐川町在住。間もなく母親になられる由)

昭和03年07月02日  陞叙高等官5等。

     〃      07月16日  陞従6位。

     〃      10月27日  すい星を発見。コジア山崎ホルベスと名づけられたが、計算者である英国のクロムメリン博士の名を冠して「クロムメリンすい星」と呼ばれる。

昭和05年04月01年  次男、明出生。(高知大学教育科卒業。現在高岡郡仁淀村川渡小学校に勤務。1男の父)

昭和07年01月06日  観測課長に任ぜられる。

     〃      08月01日  陞叙高等官4等。

     〃      08月15日  陞正6位。

昭和09年09月06日  観測課長を免ぜらる。

昭和11年03月07日  陞勲6等瑞宝章。

     〃      06月19日  北海道興部(オコッペ)における皆既日食に五藤光学の五藤齊三と組んでコロナのせん光スペクトルとトーキー式映画観測を行った。

昭和14年02月28日  図書室主任を免ぜられる。

昭和16年07月01日  陞叙高等官3等。

     〃      07月15日  陞従5位。

     〃      11月11日  陞勲5等瑞宝章。

昭和17年04月30日  依願免本官。思い出の多かった緯度観測所を去る。

     〃      05月         東京都世田谷区上馬に居住す。五藤光学に勤務。

昭和19年05月         戦争がはげしくなり、そかいが始まったため五藤光学を退職。郷里の高知県佐川町に帰る。

昭和32年12月         数年間は病床生活が多かったが、その中よりすばる会の機関紙「宇宙」へ“My path in Astronomy”を執筆せらる。

昭和34年05月         機関誌「宇宙」へ“My path in Astronomy”完結。

昭和34年05月31日  自宅にて召天。74才。

(追 記)

 御遺族は奥様及び3人の御子様方です。この年譜は緯度観測の官用履歴書と夫人のお知らせとを基礎にして作製いたしました。

(平岡)      

    あ と が き


〇山崎氏は正に突如として天に召されました。久しい御病床生活で時にはお苦しみもあったことゝ思いますが、今は安らかに神の御下で憩っておられると信じています。

〇山崎氏とお交わりを頂いていたのは僅か3年足らずでしたが、その信仰を通して清らかな人格にふれさせて頂いたことは、私のとっては忘れられない思い出です。

〇本号は山崎氏の生前中にお約束し乍らも果たせなかった、自叙伝の別刷が変型されて完成したものです。山崎氏に見て頂けなかったことを本当に残念に思います。特に本号には緯度観測所の須川力氏が並々ならぬ御助力をして下さいました。心から感謝申上げます。池田先生始め原稿をお寄せ下さった皆さんに厚く御礼申上げます。

〇愛する者を天に送られた御遺族の皆さまの上に、主イエスキリストの恵みと慰めが加えられますようにお祈り致します。

(平岡)      

このページのトップへ