連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第二部) No.1 1/9
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2023.1.6

≪はじめに≫

前回で、「My path in Astronomy(私の天文学経路)」が終わり、今回からはいよいよメインの「天文日記 #2」の紹介に入ることにする。

(写真)田中さんの資料の中に入っていた遺品の写真

↑田中さんの資料の中に入っていた遺品の写真

 2018年5月11日に、高知の天体望遠鏡仲間の小松雄一さんが送ってくれた、田中真一さんの資料の中に上の写真が入っていた。この写真の上方の中央に、「Tenmon Nikki #2, 1930 Ⅵ~, M. Yamasaki」と書かれた大学ノートが見える。これが「天文日記 #2」と呼ばれるもので、このノートを発見したのは、もちろん田中さんだ。しかし、『引き継がれるロマン』の中には、冒頭の昭和11年(1936)6月19日の北海道皆既日食のところだけしか紹介されていない。何故かというと、恐らく大半がローマ字で書かれており、その他、カタカナと漢字まじりの日本語や英語で書かれているからだろう。  そこで、今回、これを漢字仮名まじりの日本語文にした。しかし、人名や場所の名称などを漢字にするのがなかなか難しく、中には漢字の崩し文字のどうしても読めないものもあった。そのようなものは“〇〇〇”や“wakino”というように赤色で示した。また、必要なところには解説をはさみ、写真や図を挿入するようにしたので、解説文は青色文字にして、黒色の山崎氏の文章と区別した。  それでは、昭和11年(1936)6月19日の北海道皆既日食の、解説から始めることにする。是非、皆様には楽しんでいただきたいと思う。

(写真)オッポルツェルの食宝典 Chart 150

↑オッポルツェルの食宝典 Chart 150

(写真)学術研究会議昭和11年日食準備委員会

↑学術研究会議昭和11年日食準備委員会

 オッポルツェルの食宝典によれば、この日食は地中海に始まり、ヨーロッパとアジアを通り、樺太を横切って太平洋に抜けている。これは、日食中心線を円弧で結んでいるからで、実際は、学術研究会議 昭和11年日食準備委員会が製作した「皆既日食図」のように、北海道の東北沿岸ぞいを、稚内から枝幸町、常呂町、斜里町、斜里岳、根室半島を通って太平洋へと抜けるのである。
 このように、この日食は非常に広範囲に渡って見られるので、多くの天文家が観測に出かけた。日本からシベリヤや満州に出かけた観測班もあれば、逆に海外から北海道に来た観測班もある。また、国内のアマチュア天文家もこの好期を逃すまいとこぞって北海道へ出かけて行った。そのため、50万人くらいの人出があるという予想が発表されると、鉄道会社では輸送計画を立てるという話や、網走では外人向けのホテルの建設を始めたという話などが流布したという。
 一方、学会ではこの日食に備え、昭和9年5月25日、日食準備委員会を設け、観測者相互の連絡をはかり、最大の成果が得られるように企画した。また、英文の案内書を作って外国人観測者に配ったが、その中に各地の気象状況を掲げ、上斜里が一番良い天候が期待されるとあった。そこで、外国人観測者にその地を譲ったところ、皮肉にも日食当日は上斜里の天候が悪く、気の毒なことになったということだ。

(写真)1934年6月12日 花山天文台発行のBULLETIN ①

↑1934年6月12日 花山天文台発行のBULLETIN ①

(写真)1934年6月12日 花山天文台発行のBULLETIN ②

↑1934年6月12日 花山天文台発行のBULLETIN ②

 上に掲げたのは、昭和9年6月12日に京都帝国大学の花山天文台が発行したBULLETIN(速報)である。これに中央気象台と北海道の測候所等が調査した昭和11年6月19日の北海道地方の気象状況が記されている。やはり斜里付近が天候が良いとある。
 当時の主な観測隊の観測地と観測事項は、
〇東京大学物理学教室(田中 務)  隊員5名  斜里町  コロナ・スペクトル
〇東京大学天文学教室(萩原雄祐)  隊員10名  紋別  コロナ写真
〇東京天文台(早乙女清房)  隊員2名  女満別  アインシュタイン効果
  同上(関口鯉吉)  隊員4名  女満別  閃光スペクトル
  同上(橋元昌矣)  隊員3名  中頓別  コロナ・スペクトル
  同上(窪川一雄)  隊員2名  紋別町  コロナ写真
  同上(服部忠彦)  隊員1名  斜里  コロナ・スペクトル
  同上(及川奥郎)  隊員2名  訓子府  閃光スペクトル
〇京都大学宇宙物理(上田 穣)  隊員7名  雄別  アインシュタイン効果
  同上 花山天文台(柴田淑次)  隊員5名  枝幸  閃光スペクトル
  同上 花山天文台(高城武夫)  隊員4名  遠軽  コロナ写真
  同上 花山天文台(小山秋雄)  隊員5名  中頓別  コロナ写真
〇東北大学(松隈健彦)  隊員7名  小清水  アインシュタイン効果
〇緯度観測所(山崎正光)  隊員2名  斜里  閃光スペクトル活動写真
〇水路部(塚本裕四郎)  隊員3名  斜里  接触時
〇科学博物館(鈴木敬信)  隊員1名  稚内  閃光スペクトル
〇広島文理大学(正木 修)  隊員3名  下湧別  彩層スペクトル
 その他、地球物理学、電波部門の観測隊がいくつかあり、何れも概ね良好な天気で、予定の観測を果たしたようである。
  また、海外から来た観測隊は、
≪上斜里≫
〇英国ケンブリッジ  ストラトン教授、レドマン博士
〇印度コダイカナル  ロイヅ博士、マルソン
〇米国  サッカレイ
〇英国  アストン博士、バグナルド少佐
〇豪州  アレン博士
≪女満別≫
〇米国カリフォルニア大学  ジョンソン氏
≪中頓別≫
〇チェコ  スローカ博士、フヤール博士、コバー博士
〇オーストリア  ヤシエク氏
≪枝幸≫
〇中華民国 南京中央天文研究所  余青松博士等5名
≪野付牛≫
〇ポーランド  オルチャク氏
 海外に出張した日本の観測隊は、上海自然科学研究所から新城新蔵博士、荒木俊馬博士など4名が呼瑪に、東中秀雄氏など3名がチチハルに、京都大学の山本一清教授がオムスクに出張された。

 それでは、朝日新聞社と五藤光学が共同で遠征隊を派遣するようになったのは、どういう経緯だろうか。
 昭和10年(1935)の夏頃、東京朝日新聞社から五藤光学へ、来年(昭和11年)6月19日に、北海道オホーツク海沿岸で日食が見られる。その日食の写真を何とか報道したいので、協力していただけないだろうか、との申し入れがあった。
 そこで、朝日新聞社と五藤光学が共同観測隊を組織し、撮影するということに話がまとまった。約10万円相当の望遠鏡等光学装置を五藤光学が負担し、朝日新聞社は、行動費とフィルム代として1万円を支出する他、新聞のニュースに大々的に掲載するという条件で、五藤光学には少々損な話だが、宣伝になるということで了承した。ところで、当時は日食を見た人がほとんどいなかったので、五藤光学は映画撮影機の絞りをどの程度の開角度にすれば良いかわからなかった。そこで、海外の日食に行ったことのある学者に聞いたところ、皆既時間の長短にもよるが、およそ満月の夜の明かりと同じくらいだという。
 そこで、満月の夜に望遠鏡で映画を撮ってみようと、満月そのものを撮影したり、同時に望遠鏡に取り付けた撮影機のシャッターの開角度を変えながら、地上の景色を撮影した。このようにして、月1回の満月をとらえては、実験を行いながら開発を進めていった。
 ところが、翌昭和11年2月26日の早朝、市民の夢を破って陸軍青年将校によるクーデターが勃発した。午前5時頃、武装した野中四郎大尉以下20名が、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、野戦重砲兵第七連隊など一千四百数十名を引率して、各班に分かれて首相官邸、斉藤内府、渡辺教育総監、高橋蔵相などの私邸および、東京朝日新聞社等を襲撃して、内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎の三重臣を即死させ、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせた。反乱部隊はこれらの行動を終えると、首相官邸、議事堂を中心とする永田町の高地を占領し、首都東京は一瞬にして恐怖の巷と化した。所謂、二・二六事件である。
 それから、午前八時五十分頃、トラック三台に分乗した部隊は東京朝日新聞社に来襲、社を包囲する態勢をとった。社員は警備のため来たのだろうと考えていたが、その内部隊を引率して来た中橋基明中尉は拳銃をつきつけ「社の責任者に会いたい」と申込んだ。緒方主筆が出て行って応酬すると、中橋は「国賊朝日新聞社を破壊するのだ」と大声で叫ぶ、緒方主筆は徐に「社内には女子供もおるので、それを出すまで待て」と制止し、急を聞いて出社していた社員全部に一時避難するように求めた。しかし、早くも反乱兵の一同は怒声をあげて駈け上がり、社内の各室で狼藉を極めたが、実際の被害は工場の活字ケースを覆す程度に止まった。
 そのようなことがあって、朝日新聞社も、大きな損害を被ったので、日食の共同観測は行えないと五藤光学に通告した。ところが、朝日が辞退すると、待ってましたとばかりに、東京日日新聞(現:毎日新聞)が共同観測を申し込んで来た。それを聞きつけた朝日新聞が、何がなんでも朝日新聞で行いたいと、再度五藤光学に申し込み、当初の計画通り実行するようになった。それでは、山崎正光氏の「天文日記 #2」に移ることにする。


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