更新日 2023.1.13
『天文日記 #2』山崎正光著
日本の内地で皆既日食が見えることは、明治29年8月9日の北海道日食以来40年目である。天文に関係ある人で、この日食を見ようとするのは当然なことである。それで、自分も予てからその考えで、自分の費用で也りと、この日食には遣ってもらう考えであった。1935年の暮れ近くなっても、木村所長は日食については何一つ言わない。
藤堂、川崎技師もしびれを切らし、話を出したようである。その時、川崎氏は日食観測はやれと言うように話をはこんだらしい。そこで、12月のある日、木村さんが、K. J. 等の前で、自分を予備、K君が日食行きを棄権するから自分が行ったらよいだろう。ただし、役所として行くならば、幾分でも役所に関係のあることに携るがよい。松隈さんのところを手伝うということにして行ってはどうかと言うのであった。自分は、これにすぐ反対した。到底、人のところは手伝う暇がない、自分は、むしろ単独で、自分の費用で勝手に行きたいといった。そこで、話しはそう決まって、自分が自費で行くことになった。
そもそも、学術研究会議に日食委員というものがあって、既に前からいろいろ相談をしており、費用のようなものも各大学、または、研究所で分けた。あるいは、分ける方法も合っている。木村さんも、この委員でありながら少しもそれに入らず、費用も取るようなことは全然しなかった。
越えて、1936年1月の末、木村さんが東京におる時、日食委員会に日食の計画を報告せよという通知があったので、急にその報告を要求してきた。自分は、自費で行くから何も学術研究会議に報告すべき義務がないというのであったが、K氏は、これであるいは日食の費用が貰えるかも知れないから、東京に行けとのことで、つまらないけれども東京に行き、木村さんに計画を示す。
日食観測計画
1. 場所、東北大学の場所でしゃり(斜里)〔これは後に小清水となる〕
2. 機械は、小型(小さい)カメラでコロナおよびフラッシュを撮り、別に16mmの活動写真機を持ち寄ることを考えておる。また、小さい望遠鏡で接触時間の観測を成す。
3. 滞在日数は、4日(4にち)
以上のようなものであった。
この会見が終わって、世田谷の五藤光学に行く。そこで五藤君の計画を聞く。
五藤君の計画、
新興キネマのカメラマンみきしげる(三木茂)君と共に、活動写真機によってコロナとフラッシュを撮る、なお、出来ればトーキーの機械をもって時間の録音をなす。
この計画に入って自分を学術上の顧問になってくれないか、費用は朝日新聞社で出るからとのこと。自分は役所と関係がないから、それではこの計画に入るということで、三木君とも相談をなす。
ここで、日食は具体的に決まった。即ち、自分は朝日新聞の後援による活動写真班の顧問、別に小さいカメラで写真を撮るということである。その活動写真もカメラを4個用いるので、相当おもしろい計画であることも知れた。
2月26日に起こった東京の軍隊反乱事件(二.二六事件)で、朝日新聞社もやられたので、日食の計画はどうなったか分からなくなった。
五藤君の方からも、何の通知もない。
3月の末になって、木村さんがどうも学術研究会議に報告したことが公になったため、役所から日食にやるということにしなければいかない。それで、1人助手を加えて2人を出すということにするということになった。
よって、自分は菊池芳雄を助手として連れて行くことになし、別に4インチの役所の望遠鏡をカメラとなして、持って行くことに決める。
4インチ = 100mm、f=130cm であるからクロックワーク(時計仕掛)なしで十分コロナが撮れると思った。自分は、4インチくらいでf=150cm くらいのものは、コロナの写真には時計はいらないという考えがあるから、それも試験しようと思ったのである。日食も、だんだん近づいた。
五藤の方から何とも通知がない。5月になって、自分の方から五藤君のところに行き、最後の決定をなすことにした。5月7日頃に行くというハガキを出しておいた。そうすると、五藤君の方からも計画のだいたい決まった事、15日以後に来てくれという通知があった。
5月15日 東京に行く。
五藤君の話しでは、朝日新聞の方でも二.二六事件のため、日食観測が頓挫していたが、5月になっていよいよ決まって、今、大急ぎで機械を作っておるというのであった。自分の行ったとき、5メートルのコロナグラフのレンズとシーロスタットを作っていた。まだ何も出来上がったものはなく、レンズも計算やガラスの材料を問い合わせていた。
無線で時間をフィルムに録音するからというので、無線受信機を作っていた。また、電信用のクロノグラフ(時間の経過を記録するストップウォッチ)の古いものを買って来て直すこともした。
無線とクロノグラフおよびクロノメーター(天文時計)は役所の平三郎君が詳しいから、T 君をよこすということになす。なお、新聞社に結城真名子氏に会って、自分が学術指導者として観測隊に加わることを決める。その後で、今度できる学術フィルムには、自分の名もつぎの如く入ることを承知した。
学術指導者 緯度観測所技師 山崎正光
撮影者 三木 茂
光学技術者 五藤齊三
以上の決定は、後に至り大変問題が起こったけれども、別に何も自分として悪いところを認めない。みな、偽りのない誠のことであるからである。
平君は、5月30日ごろ東京に行き、五藤君のところで手伝いをなす。5~6日して盲腸炎で病院に入る。
5月28日、自分が場所を決めるために、北海道に行ったことは、前の日記帳に出ている。
5月30日の夕方、興部から電報を打つ。
“バショ キタミ モンベツグン オコッペ ショウガッコオ、 キカイ ハ 10ヒ マデニ ダセ。”
オコッペショ ガクコオ と読んだので、さっぱり場所が分からず困ったそうである。
オコッペショウという停車場を、汽車の駅で尋ねたが、どうもそのような所はないというので、困ったそうである。既に、興部を“よべ” か“おこべ” かに読めばよいものを“おこっぺ”と発音するが故に、とても分からないはずである。北海道の場所の名は、とっても読めない。
さあ、6月になって、新聞でも毎日の如く日食観測隊のことが出る。北海道の新聞は、盛んに書き立てておる。何日には誰が観測地へ着いたということが手に取るように知れる。おかげで、自分の名も度々新聞に出る。また、ラジオでも朝日班から山崎技師が行くということまで出た。
< 1.にもどる | 3.にすすむ > |