連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第二部) No.1 3/9
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2023.1.20

 6月10日ごろ、東京で関口博士、小野博士隊、新聞社が飛行機を飛ばすことで大変な争いを起したそうである。学者は、いろいろのことで新聞社の人を毛虫のように嫌っておる。どうも、これは新聞の使命ということを十分知らないのと、新聞の記事をあまり気にし過ぎるからである。自分は、新聞というものは、記事を速く出す、というのが新聞社の政策であるが故に、勝手な想像や間違いを出すことは仕方がないと思う。新聞の記事は、半分信用すればよいという考えであるが故に、何を書いても気にしない主義である。しかし、新聞というものを知らない世間や学者は、あまり神経が過敏であるが故にうるさいのである。
 ここで、特にこのことをいう必要は、つぎに問題が起ったことで分かる。この、飛行機を飛ばすことの会議で、北見の海岸の観測地の上は、どこも飛行機を飛ばさないことにした。ところが、興部はこの会議のときまでは、観測地でないために、この制限にはまっていない。
 女満別から飛び上がることになっていた根岸飛行機もこの制限にはまるのであるが、世間の体裁のために、日食の時間になってちょっと上がり、後は発動機が焼けたという名目で、すぐ降りてきたそうである。あまり世間をごまかしたやり方である。学者の方でこうであるが故に、新聞社もだまってはいない。

 6月19日、朝日の飛行機が興部に来るというので、海岸に飛行場を作った。興部は、制限以外の場所である故に、飛行機が来ることは差支えないはずである。それでも、航空規則で許可なくして着陸は出来ないが、不時着陸は認めてある。19日の朝、朝日飛行機が来た。発動機の故障で興部の海岸に不時着陸した。午後4時飛び上がり日食のフィルムと乾板を、2回に渡り鮮やかに空中吊り上げで吊り上げて、女満別の方へ飛んで行った。女満別から別の飛行機で東京に送るのである。日日、朝日、報知の各新聞社は非常な競争である。
 報知の飛行機は、一ノ関の須川岳(和訳者註:栗駒山)の近くで山に突き当たり墜落。朝日、日日は、共に仙台に着き(夜9時ごろ?)、朝日は自動車、日日は汽車に積み、東京に送るという騒ぎであった。
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 6月12日には、望遠鏡の箱2個とともに、菊池君が北海道に発つ。五藤君の方も11日に東京を発ち、12日の午後7時、黒沢沿いで自分が会う。これは、クロノメーターを五藤君の方で持ち運ぶことを木村さんが承知しないためである。クロノメーターの運搬など、誰がやっても同じである。汽車の場合は腰掛の下の置き、時計の部が動かないようにクランプしてあればよい。木村さんは、テンプルに紙を嵌めて止めて運搬せよというのであった。運搬することは、はじめて聞くことであったが、今日では、無線でいつでも正確な時間を知ることができるから、まあ、差支えないことである。クロノメーターの運搬は、女でも差支えないことは、東京天文台の辻技師の奥さんが興部の隣の沢木から紋別まで一人で運んでいたのでも知れる。

 6月13日になって、木村さんは、松隈さんや小野博士の話や注意により、どうも世間がうるさいから自分が新聞社との関係をやめてもらいたいと言い出した。できれば興部でも、全然別の方角で観測してもらいたい、ということであった。全く馬鹿な話しである。松隈さんは、事情を十分知らないから良いが、小野さんは飛行機のことで、新聞社にいじめられているので、新聞社に対して快くないのは、当たり前でである。いちいち人の批評を気にして仕事が出来るものでない。しかし、自分も省庁と、争う必要もないから、へっへっと言うて、機嫌よくその相談を聞く。ただし、別の場所でやるということは、問題にしないことに腹を決める。

 6月13日 2時20分の汽車で、五藤進君と一緒に北海道に発つ。

 14日朝6時、函館発 稚内行きの急行に乗る。木村さんも同じ汽車で札幌に行く。14日の晩9時、興部に着く。村長や松見君、菊池君に迎えられて宿に入る。この日は、汽車は随分暑かった。
 14日、この朝、木村さんと話をなし、大変すまないが、朝日と縁を切りたい、フィルムに自分の名を出すことをやめてもらいたいということを話す。仕方がないということになる。
 小学校に行き、観測所の場所を学校の玄関の近くの広場に決める。

(写真)

 (1)緯度観測所 観測隊の場所
 (2)朝日班 観測地の場所
     学校から紋別行き汽車の線路まで200mくらい。

(写真)山崎正光氏(左)と菊池芳雄氏(右)

↑山崎正光氏(左)と菊池芳雄氏(右)

 森林事務所からテントを借りて張る。そこに荷物を置く。
 15日、この日もいろいろ準備をなす。午後、網走支庁長岡田氏訪問せらる。夜は、宿に支庁長を訪問し、お礼を述ぶ。

 16日、準備、朝 木村さんが見えた。午後の汽車で紋別に発たる。

 17日、この朝、藻興部にある開拓社で高知県、高岡郡三野村出身 秋沢氏(秋沢寿気)を訪問す。森林事務所の三輪オートバイのご厄介になり、役場の野島助役、大西校長、菊池および自分である。興部から1里くらいのところ、午後1時から学校にて講演をなす。村上理学士、自分、五藤君の3人がいろいろ話しをなす。講演が終わってから、また4人でオートバイに乗り、沢木に行く。一等三角点に、東京天文台の辻技師が、経度緯度の観測をなすため、テントを張っているのを訪問す。海岸に出て、植物の採集をなす。
 北海道は、まだ、いたる所開墾地が残っているのを見て気持ちが良い。

 18日、この朝、五藤君、菊池君などとともに、雄別の上田博士のキャンプを訪問す。この日は、大変な風で、みなテントを飛ばさる。上田博士は、3mのアインシュタイン・カメラと別に、ショート・フォーカス(短焦点)のコロナグラフ2-3を用意してあり。晩は、よく晴れた。写真を撮ってフォーカス(焦点)を決める。遅くなって、少し雲が出たので、明日の天気を気遣う。

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