更新日 2024.9.13
◇昭和17年(1942年)1月
永らく病床にありし建臣も、次第に健康を快復し、1月8日より再び盛岡高等工業学校に復校、通学するようになった。
---------------------------------
今年は、自分も4月に退官し、東京に出る決心なるにより荷物や不必要の書籍雑誌類を売り払ったりなどす。
従って、変光星の観測も停止となる。
3月7日には、東京青山学院中学部に明を入学せしむべく出京、五藤氏の御宅に泊まらしてもらう。幸いにして明も合格す。
16日、水沢に帰りてより家財道具の荷造りをなす。自作の25cm反射鏡は、平君を介して前沢小学校に売る。
3月24日に、荷物を出す。1.5トン車を借りて出す。
26日に、東京に出る。荷物は27日に着く。直ちに荷さばきをなす。
自宅は、世田谷区上馬1丁目763番地。建臣も前日着京して荷さばきを手伝う。おびただしい箱やがらくた。古板等にて家に入りきらず。
4月3日頃、自分は風を引き、1週間ばかり寝る。自分は未だ役所のものなりにより、4月15日帰水す。4月30日付にて依頼免官となる。
5月2日、水沢を出発し、所員一同並びに教会員等に送られて水沢を去った。
≪解説≫
戦時色が次第に強まってきた頃、五藤光学も十条の光学兵器製造所に併合されるものと考え、昭和13年3月11日(天文夜話には昭和12年12月12日とある)に、資本金30万円の株式会社とした。しかし、役員が多すぎて意見が纏まらず、嫌気がさした五藤齊三は昭和15年に持株全部を処分し、社長を辞して三軒茶屋の自宅工場に戻った。その後、五藤齊三は、昭和17年に五藤光学研究所を再創設、玉電駒沢停留所前に工場を建てる土地を取得し、4月に地鎮祭、5月に棟上げ式を行った。
↑昭和17年4月の五藤光学研究所新町工場地鎮祭
↑昭和17年5月 の五藤光学研究所新町工場棟上げ式
山崎氏が前沢小学校に譲った反射鏡は、その後修復され、昭和59年クロンメリン彗星を見る会で使われた。
↑前沢小学校にある「25cmの山崎鏡」と須藤校長(右端)
山崎氏の東京での自宅は、世田谷区上馬1丁目763番地である。神田あたりの古地図の専門店であれば、或いは昭和17年発行の世田谷区の番地入りの大きな地図があるかも知れないが、なかなかそうも行きません。昭和17年ではないが、佐藤文彰堂が昭和14年5月に発行した『新案ポケット型・大東京区分地図』を入手することができました。
↑昭和14年5月発行の世田谷区の地図
上の地図中山崎氏宅は、中央右寄りのピンク色の楕円形のところが上馬1丁目764番地で、763番地とは1番地違いであるからそのあたりであろう。その少し左下の青色の四角いところが、五藤光学が新しく建てた新町工場のあたりで、正確な住所は世田谷区新町1丁目115番地である。その少し左上の緑色の円いところが、それまで五藤光学鶴巻工場が在ったところである。
↑五藤光学 鶴巻工場 左が五藤齊三・右が山崎正光
昭和15年に五藤齊三が社長を辞して去った後、山脇正悌が社長に就いたが、八洲光学の工場拡大祝賀会に出席して、夜遅く終電後に線路伝いに歩いて帰る途中、深夜の砂利運搬電車に跳ねられて死亡した。その頃、五藤光学研究所の鶴巻工場は、「玉川光機株式会社」に社名変更している。前の鶴巻工場の写真と、つぎの玉川光機の写真が同じところであることが分かるであろう。
↑玉川光機株式会社
その後、昭和18年4月18日のドーリットルの東京初空襲があってから、東京時計と合併し、その後東京時計が光学部分を富士フィルムに譲渡した。
ところで、先に掲げた昭和14年の世田谷区の地図で、五藤光学創業の地である五藤齊三宅は、玉川電車の三軒茶屋近くで、家を建てた大正13年当時は、東京市荏原郡駒沢村上馬引沢143番地といった。ところが、翌大正14年に町制が施行され、東京市荏原郡上馬町143番地となる。よくカタログや銘版などに「東京市外駒沢町上馬143」とあるのは、この住所である。そして、昭和7年10月1日からは、東京市世田谷区三軒茶屋町143番地となった。
↑大正13年の五藤齊三宅
シングルレンズの1吋望遠鏡発売以来、年々販路が拡大してこの自宅だけでは手狭になったので、昭和8年に弦巻町に事務所と工場を新築して移転し、1月から操業を開始した。その住所が、地図に緑色の丸印をつけた、東京市世田谷区弦巻町42番地である。
↑五藤光学研究所 鶴巻工場(昭和8年~15年)
このように、昭和17年当時、五藤齊三宅、山崎正光氏宅、以前の五藤光学鶴巻工場、当時の五藤光学新町工場などが、どのような位置関係にあったか、概略お分かりいただけたと思う。
2.にすすむ > |