連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第二部) No.4 2/6
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2024.9.20

◇昭和17年(1942年)1月

  この間、4月18日には東京に初空襲あり。だいぶの被害ありしも、これは極秘として発表せず。幸い東京の自宅近傍には被害なし。明は望遠鏡にて敵機を見たりかな。
大工に注文中の天文台建設も8日中に出来上り、下旬より観測を始む。然るに時計仕掛けのfun(ファン)の所が折れ、これを直す中に又別の歯車が破損して、この修繕に2週間を要した。

山崎天文台の位置次の如し
参謀本部の地図より、
        λ(東経)= 139°39′53.9″= 9h 18m 39.6s
        φ(北緯)= 35°37′57″(実際は -3′位らしい)

東京麻布天文台は、同地図より次の位置を得た。
        λ= 139°44′42.71″= 9h 18m 58.85s
        φ= 35°42′43.33″
同所、実際の値
        λ= 9h 18m 58.22s  φ= 35°39′17.0″
φの於いて、地図は 3′26.33′大なり。
所が米暦には、
        λ= 9h 18m 58.22s  φ= 35°39′17.0″
であって、φに於いて図の方 3′26.33″大きい。
これを参照すると、自分の位置は、
        λ= 9h 18m 40s  φ= 35°35′位がよい。


その後に於ける色々の出来事
昭和17年(1942年)11月13日、山崎保馬兄死亡。
  11月16日、佐川に行く。
  17日には、かねて佐川の兄の宅に預けてありし雅子の遺骨を伏尾山の納骨堂に安置す。
  11月19日、夕方帰途につく。この夕、兄発熱するも風引き位に思っておった所、これが肺炎となり悪化す。
昭和18年(1943年)
  1月19日には水沢、川崎所長肺炎にて永眠す。
  3月21日発、佐川に兄の病気見舞いに行く。
  4月19日、兄死亡の電あり、直ぐに佐川に行く。
後片付けの用多く、相続は兼ねて話しありが如く、長男健臣が兄の一家の後を継ぐことになる。

  戦争は、引き続き我が軍に有利に進展し、香港、マレイ、シンガポール(昭南光港)、ビルマ、フィリピン、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、等大東亜全体、我が軍に帰す。(昭和17年夏迄)。

  18年になり、英米の反攻あり、ソロモン海戦に、或はアリューシャンに大激戦あり、山本元帥は聯合艦隊司令長官の身を以てソロモン方面にて空中戦にて戦死せられ、又5月にはアッツ島に来襲せる米軍の為、守備隊山崎部隊長以下2千数百人枕を並べて戦死す。
その後の状況益々深刻となる。

  8月1日にはビルマ独立す。

  7月27日-8月  日迄、健臣は池尻町古畑病院に入院脱腸の手術を受く。
6月の徴兵検査に第一乙種となりしも、この手術を受けて入隊の用意せよと注意ありしによる。その他家内中には異常なく、東京に在って1年半を過ごす。
東京に在って、自分の仕事は五藤光学研究所に勤め、鏡の製作などを手伝う。未だ、工場に充分の施設なく、思うが如く仕事をなさず。18年10月には工場の整理法も出でし故、その内に何とかなるべきものと思う。

  1943年(昭和18年)の末に至って、五藤光学の仕事に対し、見込なきものと考えて如何にすべきかについて考えしすえ、東京を引き上げることが一番よいと決心す。

  1944年1月から、引き上げて土佐に帰ることに決め、家も売ることにす。書籍雑誌の整理をなす。政府はなるべく疎開すべきことを勧めるようになり、東京空襲も近きにあるを思はす。東京を去れば土佐の田舎では天文を研究することも出来ず、又戦争がどうなることやらと思い天文に関する機械も主なる星図星表、天文写真の整理をなす。

  3月になり、荷物一切が出来たので、1.5屯車にて140個の荷物を送り出す。自分以外の家族は3月末に東京を去る。
恵子は、駒沢女学校を卒業したからよいが、明はまだ中学の2年生で3年生になる所、国へ帰れば海南中学に転校と決まる。
五藤とはいざこざの末、自分は5月20日に東京を去った。
郷里佐川に帰って先兄の宅に住まうことにす。帰ってすぐ山を開墾し始む。
戦争は益々日本は不利。

≪解説≫
  ところで、山崎氏の仕事は五藤光学で反射鏡の製作を手伝うことです。しかし、工場の設備が十分でなく、工場の整備法も出来たので何とかなると思っていたが、そうはならなかった。そこで、五藤光学での仕事は、見込みがないものと考え、東京を引き上げることにした。
そして、五藤といざこざがあり、1944年(昭和19年)5月20日、東京を去ったとあります。このことが、五藤齊三と喧嘩して会社を辞め高知に帰ったということになったようです。しかし、それは少々違うようです。
五藤留子の書いた小冊子『五藤齊三闘病の記録』昭和58年3月につぎのようにあります。
「故人は非常に記憶力が強く又先見の明があり人の陰口は決して言わなかった。いかなる苦境に立っても絶対に弱音を吐かず目的を達する迄は決して後退しなかった。又非常に人情に篤く礼儀正しい人であったが理屈に合わない事には決して妥協しなかったので随分誤解された事もあったが、先方がその非を認めない限り断固として之を許さなかった。いわゆる「イゴッソウ」であったが黒白がつけば後は釈然として再びその事にはふれなかった。その為に随分世話した人々に背かれた事もあったが決してその人々を悪く言わなかった等々私は教えられる事ばかりであった。」



  1945年(昭和20年) 日本にも飛行機用の燃料不足する故、松の根を掘りて松根油を作れと言うので、1月元旦は、明と2人で荷稲の健臣の山に松根を掘りに行き10匁目位掘って供出す。
3月は、九反田に家を買い引っ越す。九反田部落も5月に松根や松竹を切って供出す。明もこの頃は学校から日章村海軍飛行場に奉仕に行く。1日空襲に遭い実弾の洗礼を受く。幸いにして生徒一同無事。この頃は毎日遠雷の如く爆撃の音聞ゆ。
7月4日の朝、高知空襲にて燃ゆ。
軍部は、勝つ勝つと言えど、庶民の多数は勝つとは思っていない。唯それを口に出せばやかましいので誰も口に出さぬだけである。
8月15日、遂に無条件降服日来た。国民は悲憤す。それでも無意味の戦争の終りしことを喜ぶ。
高知にもアメリカ軍駐屯す。
マッカーサー元帥日本の統治者となる。
二千有余年にして始めて独立を失う。
キリストの言える如く、およそ剣を持って立つものは剣にて滅ぼされんと教えられしこと事実となる。
降服と同時に九州の一飛行隊におった健臣も無事に佐川へ帰って喜ばしかった。国は亡び、徳義心は地をはらい、経済的大変動となり、自分は生活が甚だしく苦しくなった。

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